7月26日 金曜日 お昼にどしゃ降り

お仕事が一段落してテレビをつけると復活したサザンのメンバーが歌ってました。「ピースとハイライト」を聴いていると、ストレートに心に響く感じでした(かなり社会的メッセージ色の強い歌詞でしたが)。同じ時代を生きていると、ある程度人間の心って同じ方向に振れていくのだろうかなあと感じました。たまたまその振れる方向には左と右と異なる方向があって・・・(別に右翼とか左翼とかいう意味ではないのですけれど)。そうすると、ふと同時代を生きる人同士の感覚っていうものは、昔の時代はどういうふうに培われたのだろうかと考えてしまいました。今でこそ巷にはメディアの情報というものが氾濫して、同じ映画を見たり、同じ歌を聴いたり、同じニュースをリアルタイムで見たりするので情報共有の方法には事欠かないわけですが、それこそテレビやラジオや新聞すらなかった時代の人たちはどうしていたのでしょうか。人づての情報収集であったり、えらい人ならそれこそ遣いの者を差し向けたりしていたのでしょうか。今でこそ歴史の教科書で同時代人として扱われている人たちも、意外にその当時はあまりお互いを知らなかったりする事ってあったのかもしれません。さすがに西郷隆盛と坂本龍馬は差し向かいで話をしていたのでしょうけれど、土方歳三と福沢諭吉と岩崎弥太郎は同年生まれの者同士ですが、かたや尊王攘夷運動に命をかけて新しい時代の幕開けと共に散って行った者もいれば、かたや維新、倒幕運動にもみじんの興味を抱かずにひたすら学問の道を究めていった者もいて、もしかすると当時お互いの存在を知らなかったなんていうこともあり得るのではないでしょうかね。いったいこういう時代に生きた人々が共有する時代感覚というものはどういうものだったのでしょうかねえ?でもそんな非・情報共有の時代だからこそ、100人もの人々の決起意思が1年もの間、表沙汰にならずに秘密を守れたわけなのですよね、赤穂浪士の事件って。まあ最終的には47人の間の秘密に落ち着いたわけですけれど・・・。

同時代のひと集まれ〜ってことで、第一問。レインボーマンの悪役は?そう死ね死ね団ですね。ボリューム絞り気味でどうぞ。いまならおそらく放送禁止でしょうこれは・・・(苦笑)。ところでレインボーマンの師匠のダイバダッダって実は、仏教では極悪人だった人だそうです。