4月26日 火曜日 雨

知っているようで、自分の預かり知らぬことは多いものである。自身のいないところで交わされている会話とか、会話にならない人々の気持ちとかを斟酌したり忖度したり・・・言葉の定義はよく知りませんが、最近はやりの単語のようです。自分の知らないところで、地球は回っているのだ・・・”それでも町は廻っている”っていうマンガが最近のお気に入りなのですけど。

前回の文章で取り上げた村のルポルタージュ番組では、齢90を数えるばあちゃんが、90度近くに曲がったお腰に、鍬と鋤を抱えて畑に向かう姿が映し出されていました。冬場に溜まった用水路のゴミや泥を取り除くのだそうです。自分ちの田畑はもう休耕地帯になっているというのに・・・。「自分ちの用水路で、流れてくる水が滞ってしまったら、下流の田畑が潤わないから」だとか。自分はもうすぐあの世に行ってしまうことはわかっているのだけれど(たぶん)、生きてる限り、まだ見ぬ誰かさんのために、できることをやりましょっていう気持ちは、尊いなと・・・。「誰に見られているわけでもないけれど、これだけはやっとかないと自分の心のおさまりがつかんのじゃ。」

東北復興のお偉い方が仰っていたこと・・やっぱそうだったんですね、お金の問題なんですよ、とどのつまり。こっちに火の粉が降りかかったら大変なことだ・・・みたいな、あっちとこっちの問題意識。でも、この構図、在日米軍基地と沖縄の問題にも通底することのような気がします。あっちには発電所と基地で、こっちは万博とかオリンピックでホクホク。ことの根本はお〜んなじ成り立ちで、私たちの心の中にもそんな考え方が潜んでいるんじゃないのかな・・よく胸に手を当てて考えてみましょ!