4月22日 水曜日 晴れ

「もう◯◯歳になったから十分ですわ。コロリーっと逝かせて下さい」とか「ピンピンころりといかせてもらうために先生に診てもらってるんやから」っていうことをよく外来や往診先で耳にする。ピンピンころりが一番幸せな死に方である、というのはしばしば人口に膾炙される、比較的市民権を得た考えのようである。信州にはピンコロ地蔵なんてものもあるらしい。だがちょっと待って欲しいなと・・・。それって本当にそうだろうか?元気にしていた人が突然ころりと死ぬ訳だから、その瞬間を誰も共有してはくれない・・いわゆる孤独死ということになる。その時は突然やってくる訳だから最愛の人にも挨拶などできないのだ。明日食べようと思って楽しみにとっておいたものも冷蔵庫に入ったままである。これは人に見られると困るから明日片付けようかな・・なんて思っていたとしても後の祭りである。子や孫達に相続してもらおうと思って密かに蓄えていたものも、もしかすると誰にも見つけてもらえないかもしれない。ボクなら・・・そこそこじわじわ死にたいな、と思う。自分はこの後かくかくしかじかの経過をたどって死んで行くのだろうな、と思いながら、それなりに身辺整理をしてから、世話になった人にも挨拶をしてから死にたいと思う。PPK(って略してみた)がもてはやされる理由はと言えば、おそらく誰にも迷惑をかけずに(それは金銭的にも身体的にもということであろうが)人生を閉じたいと考えるからであろう。もちろん現実は、それとは反対の方々がほとんどである(みんなが迷惑をかけながらという意味では決してないが)。子や孫に迷惑をかけたくないというのは相当に現代の世相を反映している、ある意味この世の病理とも言える現象なのかもしれないと思う事すらある。果たして他の国々の人たちも、私たちと同様、そう願っているのだろうか?そもそも、それは本人が思っているほど周りは迷惑だと考えていないことも多い訳で、亡くなられた後に、その頃を懐かしく笑顔で思い出されることのほうがむしろ多いのも事実であり・・・。ボクは結局、人って ”生きて来たようにしか死ねない”のかな・・と思っている(なので私はやがてはエンマさんのもとに行くのだ、と自分で勝手に決めているのだが《泣》)。他方で、地域連携医療というのは、まさにそういう括弧付きの迷惑というものを、皆で分散しながらシェアをして助け合って暮らしましょうという制度である(と思う)。人にはそれぞれ事情があり、介護したくてもできない家族もあれば、介護できるのにしない家族もあるだろう。そういうのをひっくるめて、家族だけの責任にせず、社会で支え合って行きましょうというのが良いのではないかと考えた我々の知恵なのではなかろうか。でもって、これ以上語りすぎると、小さな政府至上主義の方々にお叱りをうけそうなのでこれ以上深入りはせずにやめておこう・・・。

PPK

佐久市のピンコロ地蔵さんです。