3月2日 土曜日

立ち寄ったガソリンスタンドではすでにノーマルタイヤへの交換が行われていました。今年は雪が少なくて本当に助かりました。アメリカではまた暴力的な!寒波がやってくるらしく大変なことになっているようです。最近院内で購読している週刊誌の特集が毎回いわゆる終活関連のことが取り上げられているようです。バックナンバーをみてみると・・・

”いい遺言が妻や夫、子を守る”  ”死後の手続き Q&A30問”

”夫や妻と死別後の手続き”  ”葬儀をせずに幸せに逝く”

”困る前に整える死後の手続き”  ”生前にできる死後の手続き”

”書き込み式死後の手続き”  ”体とお金の老化に備える”

ほんとに毎回こうなのでよほど読者の関心が高いことなのでしょう。先日、人生の最終段階における医療・ケアについて事前に話し合う仕組み(いわゆるアドバンスケアプランニング)についての勉強会に参加してきました。この取り組みについての愛称を「人生会議」に決定したとの厚生労働省の発表がありましたが、こうやって終末段階の医療や介護についての国民の認知度を高めていくという取り組みなのでしょう。それはとても大切なことだと思います。実際の医療の現場でもそういった患者や家族の意思決定が今後重要視されていくと思います。一方で、それに負けず劣らず大切なことは、それに至るまでの人生をどう(よく)生きていくのか、ということなのだろうと考えています。自分勝手に人生を送っておいて、最後は宜しくお願いします・・というのはなかなか難しいでしょう。よりよい終末期を過ごすということは、とりもなおさずよりよい人生を送ってこその事なのだ、ということを考えないといけないと思います。家族を思い、コミュニティを思い、世の中のことを思いやりながら人生を送ることがあってこそ、皆に惜しまれながら人生を締めくくっていくことができるのではないでしょうか。終活というと、年齢75歳をすぎてから大慌てで取り組んでいくというイメージもありますが、よりよい人生を送っていくというのは子供の頃からの教育に関わる、私たち皆が共有できるもののはずです。お正月にとある社会学者とメディアアーティストの方の対談が話題になっていました。終末期1ヶ月間にかかる医療費が無駄ではないかという観点で語られているものでした。経済を軸に医療を語ると、どうしてもある一定の方向に議論が収斂していってしまいがちです。生産性とか効率とかが優先される経済と、個性とか人間の尊厳とかを重視する医療はもともとあまり親和性が高くないものどうしなのでしょう。医療を生業にしている立場でモノを申すと、我田引水という批判のそしりを免れないのですが敢えて言うと、「食べられない、呼吸も自分でできない、でも生きている存在」に癒される、あるいは励まされることがあるわけでして、まさに一個の人間として生きている価値があるのではないでしょうか。最後の1ヶ月間の医療だって、或いは、とかく悪者にされがちな人工呼吸器や胃ろうだって、十分に適応を吟味してうまく利用していけば、形式でおざなりの労働生産性や経済効率といった言葉をはるかに上回る価値をそこに見出すことができるのだと思います。健康な人も、病気を持っている人も、人間とは少なからず、”他人に迷惑をかけながら生きている”存在なのです。生産性や労働価値だけを基準に人間の存在意義を考えるのではなく、もう少し社会的包摂を重視した議論をしていっても良いのではないでしょうか。

北米の気温・・-35℉って・・・