7月16日 木曜日
15日を過ぎるとやらないといけないことがある。出退勤管理簿の整理である。ついこの間までは管理される側、タイムカードを押す側であったのに・・この変わりようは予想していなかった(いつまで言うてる?!)。いつぞやの会議であったか、医療従事者の権利保障のお話になった時に、とある病院長が、従業員の権利がそれほどまでに守られているのに、私たち経営者の権利はどう保障されているのか?という問題提起をされたことがあった。労働環境の整備をしなければならないという文脈での議論の中であったと思う。経営者の権利という言葉そのものが少し違うかな?と感じたのを記憶している。経営者に求められているのは権利ではなく義務であったり、配慮であったりするものだと感じているからだ。15日を過ぎて、ふとそんなことを思い出したので書いてしまった・・。ところで今、何を一番気にしていますか?と問われたら、2−3割の人は「今日の感染者数」とか答えられるのではないだろうか?それほどまでに私たちの心に棲み着いてしまっているこの問題。 SNSやウェブサイトでの投稿を見ていると、そこまでに対立しなくても良いのにと思うことがある。例えば、PCR検査についての意見の対立が、左右イデオロギーの対立になってしまっていたり。”たかが”ウイルスの検査なのにそこまで言わなくても・・みたいな状況である。マスクをしていないことを注意された人が切れてつかみ合いの喧嘩になっているビデオが投稿されていたりもする。シニカルな冷めた目線でこのようなことを書いている訳ではない。当事者としてコロナウイルス対策には真剣に取り組んでいるつもりであるし、つかみ合いの喧嘩をしている人たちの気持ちもよくわかる。でも敢えて言いたくなるのだ、そこまでせんでもええやん・・・。”たかが”ウイルスにやられてしまうのが人間であると言うのがよくわかったこの数ヶ月だったな。一発の爆弾でもなく、ましてや核戦争でもなく”たかが”数10kbの塩基配列からなる、自分たちだけでは複製もできず、移動もできないただの核酸の集まりの”物体”にやられてしまったのだ・・。養老孟司さんの文章を読んではっとさせられた。私たちはヒトを見ることをし過ぎてはいないだろうか?対人のグローバリズムは、いかに人に受け入れられる動画を作るか?と言うことに腐心するユーチューバーを大量に産み出しているし、ちょっとした些細なひとりの発言が過剰なまでに炎上する社会を作り出しているのだ。対物のグローバリズムをもう少し意識してみよう。今日の感染者数を一旦脇に置いて、今日の裏庭の草花とか、今日の道端のカエルたちとか、今日の雲の形とか・・・モノを見ることに傾注してみても良いのかもしれない。ちょっとここらで、一回息継ぎしましょ。