京都府与謝郡与謝野町 内科・外科・リハビリテーション科・在宅診療 いとうクリニック

ふくろうくんのブログ

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7月17日 水曜日

外科医は器用でないといけないのか?医学部を卒業して専攻科目として外科を選ぶ時に、誰も一度は考えた事があるのではないかと思います。私も当時はそれが結構自分としての大問題と思っていろいろ考えていたのですが、今なら少し違う考え方をすると思います。合わなかったらやり直せば良い。何か始める時には、そう考える事は消極的な気がして躊躇するものです。 その当時は、いざ外科医になってみて、手術が目も当てられないくらい下手くそで役に立たないとわかれば、国境なき医師団に参加して何か役に立つ事を探そう、とまで考えていました。今考えれば、なにもそこまで飛躍せずとも、他にいくらでも道はあると思うのですが、若い時ってそういう極端な考え方になってしまうものかもしれません。外科医は器用でないといけないのか?という問いに対する答えとしては、器用であるに越した事はないけれど、それほど器用さは必要不可欠な条件ではない、というのが私の現在の考えです。もっと他に大切なものがあると思っています。

Kuma

たびたび利用する京都市内北部を走る叡山電車、いわゆる”えいでん”ですが、そのつり革にハートの形をしたものがあるそうです。すべての車両の中にあるつり革の中で、たった一つだけあるらしいのですが、どの車両の、どこにぶら下がっているのかは、当日まで運転士さんも車掌さんも知らないのだとか・・。働く方にとっても毎日の密かな楽しみになっているのでは?(実物はやや洗練さに欠けている気がしないでもないのですが)

うさぎ美味し、かの山・・?!

7月15日 海の日

今日は、国民の祝日に関する法律によると、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」のがその趣旨であるそうです。7月第3月曜日がまさに今日なのですね。海の日があるのならば・・・いっそ山の日をこしらえても良いのでは?などと思うのは私だけでしょうか。市内と丹後半島を往復するその道のりで、車窓を流れてゆく風景の6割いや7割は、豊かな緑の日本の里山の景色です。むろん運転しながらじっくりと眺めることは出来ないのですけれど、ぽつんぽつんとたたずむ集落の灯が、夕暮れ時に映える町並みはのどかなものです、が・・鎮守の森に氏神さまがあって、学校と診療所と郵便局のあるのどかなかつての村は、インターチェンジの脇にコンビニがあって、学校の跡地とデイサービス施設と看板の降ろされたタバコ屋さんにとって変わりつつあるような・・。都市と地方が共存しながら栄えていく国づくりを考えていかないといけないですねえ。

棚田

子供の頃に遊んでもらった町の子ども会で教わった「ふるさと」のうたの振りつけを、何故か今でもよく覚えています。うさぎ追ひし、と理解したのはそれから少し時間がかかりましたが…

ワクチン問題 その3

7月12日 金曜日

先日もいわゆる子宮頸癌ワクチンの相談を受けました。あまり自分でもよい説明ができたとは思えないのですが、ひとつの情報として・・・

http://www.know-vpd.jp/news/1499.php

インターネットは色々な情報が氾濫し、まさに玉石混淆と化しています。ネットの時代は取捨選択の時代でもあるのですね。新聞とテレビだけに頼っていれば何とかなっていた時代の方が楽チンだったのかもしれません。いやきっとそうだったに違いない・・・。ネット選挙とかだって、それほどの革命的なことなのかどうか私には良くわかりません。誹謗中傷などを取り締まるための、サイバー監視会社が繁盛している事だけは確からしいのですが。

Youarebeingwatched

needless to say…..

愛国心

7月9日 火曜日 真夏日

先日高校の一年上の先輩からメールを頂戴した。その先輩は僕が入学したとき(先輩は2年生)には、僕の方から見下ろす感じであったのだが、卒業する頃には遥かに先輩のことを見上げるまでに成長なさっており、おそらく高校3年間で30センチほど身長が伸びておられたのではないかと思う。もうその頃から30年もの歳月が経過したのだなあと何となく感慨に耽っていて、ふと30年前は何をしていたのだろうか、どんな出来事があったのだろうかと考え調べてみた。もちろんまだ携帯も電子メールも無かったし、インターネットなどもおそらく生まれる前であったろう。自家用車のドアミラーはボンネットの両端にちょこんと付いていたし、プラザ合意前の為替レートは、1ドル200円を優に超えていたと思う。入学した1983年は前年度に発足した中曽根政権の2年目で、自民党の代議士であった中川一郎氏の自殺で年が明けている。のちに人気テレビ番組となったTVジョッキーが始まり、青木功が日本人で初めてアメリカゴルフツアーで優勝を飾ったのもその年である。冷戦構造まっ只中の米ソ対立にあって、レーガン大統領は一般教書演説で、ソビエトを名指しして悪の帝国と発言していた。アクエリアスやカロリーメイトが発売開始となり、NHK朝の連ドラでは国民的人気を博した「おしん」が流れている。悪いニュースとしては、戸塚ヨットスクール事件や、大韓航空機爆破事件などもこの年に起こっている。2年生に進学した年には、あまり大きな事件はなかったようだが、あっという間に3年生となり、一応現役で大学合格を目標にしていた私は、夏休みには毎日大阪大学の石橋キャンパスにあった図書室に通い勉強していたように記憶している。別に図書室で誰かと落ち合うわけでもなく、自宅学習すれば良さそうなものであるのだが、受験生には何となく気分転換が必要なのもご理解頂けるのではないだろうか。リュックにはオレンジ色の「新体系物理」と、赤と白のガリ版刷りのような本文の「大西の有機化学」と、「大学への数学」という、ややオタク系の雑誌が詰め込まれていた(はず)。そんな1985年の夏はあっという間に過ぎる筈であったが、図書室での勉強を終えて「おニャン子クラブ」を見に帰ろうとして帰宅した8月12日の夕方、帰宅後のテレビはテロップで日航機123便の失踪を伝えていた。翌年大学に入学した年は、いわゆるバブル景気の始まりであり、全世界を席巻していったソニーやホンダ、日産などの日本ブランドが、その後隆盛を誇っている。女子大生は彼氏のプレリュードに乗って、恋人はサンタクロースをBGMにマハラジャに通い、ホイチョイプロダクションは原田知世と三上博史を起用して「私をスキーに連れてって」を作り、オッサンはシーマやソアラといった国産高級車を乗り回していた。残念ながら私には、あまりこのような現象のおこぼれに預かる事ができたという記憶がないのだが、何となくウキウキとした時代の流れには乗っかって生きてきたのである。その後はといえば、住専の破綻とともにバブルがはじけ、あれよあれよという間に日本企業はサムスンやヒョンデに置き換わって行った。海外旅行に行けばホンダとトヨタと日産ばっかだったのが、いつの間にか時代は変わったのである。こうしてよくよく考えてみると、私たちの愛国心とは・・・どこの国に行っても目にした日本のトップブランドに象徴されるように、高性能と高い完成度のデザインに象徴される自動車や電気製品に誇りを感じながら生きていたように思われる。そして今、国旗国歌法案や美しい国が声高に叫ばれる中で、我々世代以上の年代の人々がかつて愛国心のよすがを見ていた、今では失われた日本ブランドの中に、日本勃興再びの夢を見ているような気がしてならない。しかしながらよくよく考えてみると、日産はカルロスゴーンに、ソニーはハワードストリンガーにCEOの座を明け渡しているし、ファミリービジネスとして頑張っているトヨタでさえも外国人持ち株比率は30パーセントに到達しようとしているのである。こうなるともう彼らの国籍は日本と呼べるのかどうかすら怪しいものである。それでもなお、我々は、これらの企業をバックアップする事で、あの頃の日本よもう一度とすがりついているようにさえ思われる。しかし既にグローバル企業は国境を越えて、われわれのあずかり知らぬ、異次元のフェーズに突入していると言えよう。もう企業は、終身雇用はしてくれないどころか、非正規雇用の枠を拡大し、あわよくば世界同一賃金などというワードを作り出してその人件費を縮小化しようとしている(ように私には見える)。そして何か気に入らぬ事があると、「ならば我々は日本という国から出て行くぞ」という脅しともとれる言葉を発信しているのである。何も私は、それがいけないと言いたいのではなく、そういう企業を批判したいのでもない。むしろそのような株式会社の振る舞いは至極当然の事であると思っているし、ソニーやトヨタや日産には華々しく活躍をしてほしいものだと願っている。そして日本全体の景気が良くなってほしいものだと心の底から希望している。しかしそれはそれ、目の前の事あるいは国としての政策を考えた時には、やはりグローバル企業の向いている目先とは異なった目線で持って対処してほしいと願っているのもまた事実である。何よりも問題なのは、我々の心が、変わりつつあるグローバル企業の実態から目を背け、或は見て見ぬ振りをして、旧態依然のような経済至上主義を繰り返すことによってしか、現状打破の道はないと考えている事にあるように思えるのである。

なぽれおんず

長くなってしまった。わかる人にはわかる(?)この写真でしめることにしよう・・・。

 

ほうれん草が嫌い!?

7月8日 月曜日 梅雨明け

「日本には経済や国家観を語る歴史家がいない。」最近たびたび耳にする言葉である。平川克美さんなどは、今メディアに引っ張りだこの経済学者あるいはコメンテイターには、それこそ経済だけしか見ていない、近視眼的なものの考え方をする人が多すぎると述べておられる。多くのアンチグローバリストの方便としては、①日本の国民総生産の約6割は国内消費で占められているという事実がある②故にその1割しか占めていない貿易収支で、いくら輸出企業を応援しても仕方がなく、国内消費を上昇させる方策に目を向けるべきである③しかれども、国内消費の担い手である日本の人口は右肩下がりのフェーズに突入しておりこれはどうしようもない事実である。少なくとも30年後には高齢者が、そのまた高齢者を養わねばならないという現実に直面するのである。ここにはどう考えても国内消費量の増加は見込めないであろう④しからば、30年後にもサステイナブルな経済成長などというものはあり得ないではないか。というのがその論法である。私はこの論法を否定するすべを持たないものであり、アンチグローバルなものの考え方を支持する所以がここにある。もちろん色々な意見が他にある事は承知しており、それを無下に否定するつもりも無いが、私は種々の物事を考えて行くその土台は、これに立脚していきたいと考えている。一方でグローバリゼーションは世の流れとして仕方のないものであり、この流れに棹さす事にまったくやぶさかではない。一開業医に経済がそれほど大事な事なのかとお考えの諸氏もおられると思うが、医療と経済は切っても切れない関係があり、医療人たるもの経済にある程度精通しておく事はとても大事な事であると思っている。経済の大きな流れで、一番に切り捨てられがちなもの、それは弱者であるからである。病に伏せる人々、それは弱者の最たるものであると考えるからである。社会福祉の担い手である医師たるもの、弱者の側に立ってつねに物事を考えなくてはならないというのが小生の数少ない持論である。そんなこと言いながら、Mバーガーは大好きであるし、往診途中で一休みするコンビニのイートインコーナーでのひとときがささやかな楽しみであったりするのだが・・・。

おべんとう

世のお母さんの大変さを体験しましょうということで・・・お弁当作りに挑戦しました。まあ野菜とお肉を切って炒めただけのものに、ミッフィーかまぼこという飛び道具を使用した安直なものでありますが。

タイトルは何だったのでしょうか??そうそう、良く新入生や新入社員への言葉で、”ほうれん草を大切にしなさい”なんていうのがあるのですけれど、私はそれが今イチ好きになれないなあと思っていたのでした。ほうれん草って何じゃらほい?と仰る方もおられるかもしれませんが、いわゆる報告(ほう)連絡(レン)相談(草)っていうことですね。研修医にもこういう指導はたびたびなされる事があるのですが、研修医といえども立派な社会人なのですから、何を”ほうれん草”すべきなのかっていうことを自分の頭で考えて判断できなくては困りますね。すなわち「ほうれん草を大事に実行しなさい!」ではなくて何をほうれん草すべきなのか「自分で判断できるようになりなさい」というのが真に大切なメッセージであるべきなのではないかと思うわけです。であれば何もほうれん草などとおもしろおかしい比喩を用いなくても良いのではないかなあと・・。それよりも、こういう指導の背景には、ワシに相談も無くこんな事しよってからに・・っていう含意が込められている事が多いので、そういう父権主義的なものの考え方をするマッチョな指導医にもついて行けないのであります(困)。

てんでんこに学ぶ

7月6日 土曜日

朝はらじるらじるというアプリを聞きながらカルテ整理などしていることが多いです。たまたま耳にした広域首都圏防災センターの片田敏孝先生の講演に思わず聞き入ってしまいました。先生は自然災害からの防災を研究テーマに長年取り組み、ハザードマップの作成や津波のシミュレーションなどの業績をあげられていた方です。東北大震災の発災前から釜石市の防災教育にも携わって来られて、あの震災からほとんどの子供達が生き延びた、いわゆる釜石の奇跡と呼ばれる出来事の立役者でもあります。誰もが日頃はあまり見向きもしない、いつか来る震災というものに備えて来られた方ならではの多くの示唆に富むお話でした。子供達への教育でもっとも大事な視点は、災害への恐れから発動する行動ではなく、自然を受け入れて共生する中で、自ら生きる知恵を考える力をつけさせる事であるということを強調されていました。また、そいうことは学校で教えるものとするのではなく、地域や家庭でも日常生活の中で生かして行く必要があると述べられています。たとえば日曜日のお昼に津波警報が鳴っているとき、相変わらずお父さんは居間でお菓子を食べながらテレビを見ていて、大丈夫大丈夫と言っていたり。学校に来るお巡りさんは「横断歩道はね、右を見て、左を見て、もう一回右を見てから渡りましょう」って言っているのに、町でそれを実行しているお巡りさんや大人達を一度も見た事が無かったり。お母さんには「先生の言う事きちんと守ってるの?」って怒られるくせに、友達同士で電話しているお母さんが先生の悪口を言っていたり。子供達は日常的にこうしたアンビバレンスの中で生きているわけですね。ほとんど人格崩壊しそうなダブルバインドの雨あられです。最近学校教育に対してあれこれと注文を付けるモンスターペアレンツとか言われますが、やはりまずは我々の足元を眺めなおす必要がありそうですね。子は親の背中を見て育つ!私も明日から日曜日に子供達が勉強机に向かっている時にはごろ寝をせずに、背筋を伸ばして読書でも・・・(したいと思います)

ハザードマップ

選挙の車が騒々しい世の中です。いろいろ考えましたが、小生は強いリーダーシップをもった救世主が、白馬に跨がって登場してくれるのを待つのではなく、自ら自分のできる役回りを果たすという意識を持った一公民としてこれからも生活して行きたいと考えます、ハイ。

 

1年生になったら・・・

6月28日 金曜日 くもり時々晴れ(だったと思いますたぶん)

医師として社会で働き始めてかれこれ20年余ですが、自分のクリニックで働き始めたのはついこの間でして、お腹の手術には少しではありますけれど自信はあったのですが、やはり開業医1年生の我が身をときどき(しょっちゅう)反省しなくてはなりません。医師と一口に言っても、病院勤務で専門性の高い仕事をしている内容と、いわゆるコモンディジーズといわれる”よくある病気”をうまくマネージメントするお仕事は結構似て非なるものであります。そのうえかかりつけ医として・・という気負いもあったりして、いろいろと反省の多い毎日です。転送先の病院におられる遥かに年の若い先生に助けてもらったり、介護のスタッフに支えてもらったり、もちろん自院の職員にも大いにサポートしてもらっています。でも一年生だからこそ気づくことができる事もありますよね、世の中。がんばろうぜ、一年生の諸君!!あ、私はもう2年生なのでしたっ  orz…….

カフェ・ハチャム

私の好きな学者さんである北大の中島岳志先生の声かけで始まったカフェの、外壁に描かれた壁画です。シャッター通りと化した北海道の発寒商店街に若者の活気をとりもどそうと発案された人の集う場作りの一環です。ある町に暮らす人々が孤立してしまうことのないように、いわゆる”ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)”と言われる考え方に立脚した活動ですね。少し前に報道された大阪の町のど真ん中での母子の不幸な事件などが頭によぎります。「最期にもっと美味しいものをたべさせてあげられなくてごめんね」なんて・・どんな理由があったにせよ、自己責任の一言で片付けられるほど私たちは鈍感ではないと思います。わたしも将来、中島先生のような活動を、現在の地でできればよいなあ・・・なんて夢を見つつ。

介護と文化

6月25日 火曜日 曇り

晴天続きだった梅雨にもようやく”らしい”天気が戻ってきました。在宅診療をしておりますと、時にグループホームであったり介護施設の患者さんを診察する事があります。グループホームと言えば、今年の2月でしたか、長崎市の施設が火災に見舞われて5名の入所者が亡くなるという痛ましい事故があったのをご記憶の方もおられるのではないかと思います。現在グループホームと言えば一般的には、介護保険制度の中で全国に広がった、いわゆる認知症高齢者型グループホームを指します。全国に1万を超える施設があるそうですが、高齢化の進む我が国では認知機能の低下により独力では生活できない方が、病院以外で暮らす事ができるという、非常に大切な役割を果たしているものです。そのような中で、先般の火災事故を契機として、全国の施設を一斉に点検して、安全性に不備のある施設に現在行政指導が入っていると聞きます。何故この話題なのかと申しますと、小生の心のメンターでもある池田市にある浄土真宗本願寺派如来寺の住職をされている釈徹宗先生が運営されているグループホーム「むつみ庵」にも行政指導が入り、対応に苦慮されているという記事を目にしたからなのです。もともとお寺の裏にあった檀家の空き家を利用して開所されたこのむつみ庵、築40年の古民家を改修して作られており、敷地内に畑があったり、床の間でお花を生けたり、利用者が皆”我が家”のような感覚で住まわれているといいます。もちろん設立当初もその後も行政機関と折衝を重ねて法令遵守して作られたものではあるのですが、今回の火事を契機として、壁と天井を耐火仕様の素材に変更せよという命が下っているそうです。釈先生はそれこそホームの閉鎖を考えるところまでいかれたそうですが、何とか改修存続の方針で動いているとの事です。曰く、『グループホームは、認知症の方々が、家庭的な雰囲気のもとで介護を受けながら共同生活をする場で、ただいまと言って帰る事のできる里親ならぬ里家』になればよいなと考えておられるようです。池田モデルを目指して、防災耐火の機能を備えた古民家改修のモデル作りをしましょうと、行政機関に働きかけているそうですが、なかなか腰が重いそうです。安全性の担保や法令遵守はもちろん大切なのではありますが、壁とコンクリートに囲まれた生活環境が本当に”人としてその最後を全うする場なのか?”という問いかけはとっても重いなあと感じました。それこそ、全国チェーンの企業体には絶対に着想できないであろう内容であります。昨今もてはやされている”イケてる経営者”をチヤホヤするのもよいですが、こうして地に足をつけてじっくりと本当の意味での介護を考えながら運営されている施設にももっと光が当たれば良いなあと感じた一日でありました。『介護の世界にも文化は必要なんです!!』

むつみ

もう毎日毎日”株価がどうなった”とか”投資ファンドがどうだ”とか、無粋なニュースばっかりトップで報道するのやめましょや〜  すべてはうたかたの夢でありましょう・・・

なか見!検索

6月19日 水曜日 雨

ようやく梅雨らしい天気になってきた。

非・都会暮らしを始めて久しいが、世の中つくづく便利になったものだと思う。欲しいものがあればインターネットとパソコンさえあれば、早ければ翌日には手に入れることのできる時代である。某熱帯ドットコム、いやいや密林ドットコムの書物コーナーでは実際に手に取って、数頁めくるような感覚で、ものによっては中身の確認までできるものもある。何を今さら・・・という話題ではあるのだが。だいたいそんな見本に公開されている中身部分はと言えば、小説であれば書き出しの数頁である事が多い。小説の書き出しと言うと、すぐに思い浮かぶのはやはり夏目漱石であろうか。『我輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。』などというのはおそらく知らない日本人はいないであろう。他にも坊ちゃんなら『親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている。』であったり、草枕の『山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。・・・』なども印象的な一節である。海外の作家であれば『ある朝グレコールザムザが不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹のとてつもなく大きな毒虫に変わってしまっているのに気がついた。』なんていうのは、もうなんじゃこりゃ、ではなかろうか。小説の書き出しはやはり読者の心をつかむ上では、作家の一つの腕の見せ所なのではないかと思う。古典をひもとけば、『男もすなる日記といふものを女もしてみんとてするなり。』と、女になってしまった紀貫之さんや、『つれづれなるままに、日暮らしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく』書き尽くしてしまわれた、兼好法師なども、むかし苦しめられた思い出のある方は多いであろう。はたまた『祇園精舎の鐘の声』の祇園って京都の事かいな?と思ってみたり、とにかく皆に暗記される書き出しを書くことができれば、今風に言うと”つかみはオッケー”なのである。小生の好きな小説の書き出しは、とある主人公が一人汽車に乗って、鄙びた無人駅に降り立ちその土地の描写からはじまる・・・ような雰囲気が好きである。そこに漁港があったり、そのうえ海鳥が鳴いてたりなんかすると、もう鳥肌ものでゾワゾワしてくるのである・・・。人物伝などのフィクションでも、主人公の生まれ育った町並みの描写などから始まる書物は結構多いのではないだろうか。背景というのは小説のみならず、人の生い立ちにもとても重要なファクターなのかなと考えてみたりする。書き出しばかりで盛り上がってしまったが、最後に締めくくりのかっこいい著作をひとつ。『万国のプロレタリアートよ団結せよ!』で終わる、マルクスとエンゲルスの共産党宣言でした・・・(あ、わたくしの政治信条となんら深く関わるものではございませんので・・・)。

Double strand

Myriad判決ってご存知でしょうか?米国Myriad Genetics社の有する乳癌および卵巣癌の発症に深く関わっているされる遺伝子の特許に対して、特許適格性の有無が問われた裁判です。要するに研究者が同定単離したヒトの遺伝子に特許が認められるかどうかということが争われている裁判です。乳癌遺伝子の方はついこの間に話題になっていたBRCA1という、あのアンジェリーナジョリーのやつですね。結局最高裁の差し戻し審では、遺伝子の配列そのものには特許は認められないが、単離の方法などには特許はあり得べし、となったようです。どうでも良いような判決ですが、これって結構重要な事柄を含んでいるようです。例えば、その遺伝子を利用した検査や、治療薬などについて、患者が治療をする度ごとに、見も知らない会社に特許料という名の治療費を支払わねばならなくなったり・・・

ワクチン問題再考

6月17日 月曜日

ブログで取り上げたからにはしっかり落とし前をつけねば・・ということで厚労省のサイトに潜入!?してみました。「子宮頚がん予防ワクチンの接種を受ける皆さまへ」というファイルがあります。冒頭、積極的にはお勧めしていません、という見出し。接種にあたっては有効性とリスクを理解した上で受けて下さい、とあります(リスクについては、そう簡単に理解できないのでありますが)。一定の頻度で見られる、いわゆる軽度の副反応についての記述の後に、「まれに重い副反応もあります」という見出しで、アナフィラキシー(全身の重いアレルギー反応)が96万接種に1回、ギランバレという末梢神経の麻痺症状などに代表される症状を呈するものが430万接種に1回、ADEMという脳神経に重い障害を生じうる病気が430万接種に1回、マスコミで話題になっている持続的な痛みを訴える重篤な副反応については現在調査中となっていますが、これについてはまだ確かな数字は小生は掴みかねておりますが、20万〜200万接種に1回の間の数字である事のようです。これらの数字の多寡については、それぞれの御判断に委ねる事としたいと思いますので、コメントはここではしない事にします。クリニックを運営する身として、先週末からややうろたえ気味であった理由は、やはりこれらのことについてかかりつけ医と相談の上で・・の一言がどうなることやらと、思いやられたからであったかなと考えます。それこそ時間がふんだんにあれば何の迷いもないのですが、日常の業務の中でリスクとデメリットについてゆっくりと相談する時間が果たしてあるのだろうかと考えるとやや焦ってしまったわけです。これは反省しなければなりませんね、こんな事くらいで動じてはなりません。そこで感染症のオピニオンリーダーの一人である神戸大学の岩田先生曰く「今回の厚労省の決定をあえて支持する」との言。パピローマウイルスはいわゆる飛沫感染である風疹などとは違い、緊急性の弱いものであるから、感染経路をとりあえず断っておく事は不可能ではなく、明確な結論が出るまですこしペンディングでも良いのではないかというご意見でした。なるほど。でも一つの出来事でやはりドドーッと雪崩を打つ国民性の我々、十把一絡げに他の大切なワクチンに影響が出ないように同時に配慮する必要がありそうです。

UN

某国連人道大使のシャラップ発言にはちょっと驚きました。あれがアフリカ諸国ではなく、先進国の大使の面前でなら、同じ発言はできなかったのではないかな?と勘ぐってしまいます。最近立て続けのいろいろな失言問題を考えるにつけて、つくづく内弁慶な国民性だなと思う事が多いです。この手の議論ってほんとに海外では一蹴される話題です。まさに取りつく島のない対応をされる事間違いなしです。アメリカで数年暮らした感想として言いますが、くやしいでしょうけれどそうです、おそらく。

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